ビートたけしのプロフィール
お笑い芸人だけでなく、映画監督としても知られる「ビートたけし」こと北野武さん。
漫才コンビ「ツービート」のビートたけしとして人気を博した1980年頃から、40年以上経った今も、お笑い界のトップとして活躍しています。
漫才を始めたきっかけや「コマネチ」などのギャグの誕生秘話など、ビートたけしさんの生い立ちから、人気者になるまでのエピソードを紹介していきます。
はじめに、ビートたけしさんのプロフィールから見ていきましょう。
ビートたけし
本名 北野 武(きたのたけし)
生年月日 1947年1月18日
出身地 東京都足立区
身長 168㎝
血液型 O型
タモリさん、明石家さんまさんと並んで「お笑いビッグ3」の1人として、長く日本のお笑い界のトップに立ち続けています。
基本的にテレビ出演する時には「ビートたけし」として出演しますが、映画監督の時や一部のメディア出演では「北野武」として活動しています。
ビートたけしさんと言えば、浅草の下町生まれというイメージがありますが、実際に浅草生まれであるものの、物心がつく頃には足立区に移り住んでいたそうです。
ビートたけしのデビュー前のエピソード
四人兄弟の四男として、塗装色人の父と、教育熱心な母のもとで生まれ育ったビートたけしさん。
幼少期から、行動力があり、頭の回転が速い少年だったビートたけしさんは、教育に力を入れていた母の期待に応えるべく、成績も優秀な小学生でした。
しかし、優秀な兄たちに比べると、勉強が得意ではなかったため、母からは厳しくされていたそうです。
その後、母の希望により、近隣の中学ではなく自宅から離れた進学校に進み、小学生から高校生まで野球部にも所属していました。
大学も母の勧める、明治大学工学部に進学しますが、大学での生活に馴染むことができないまま、2年になる頃には家を出て1人暮らしを始めます。
特にやりたいこともないまま、ジャズが好きだったこともあり、ジャズ喫茶でボーイの仕事をはじめました。
なかなか人生の目標を見つけることができず、実演販売員、タクシー運転手、ガソリンスタンドの店員など様々な仕事をし、ジャズ喫茶で知り合った映画監督の若松孝二さんの紹介で、映画の端役を務めることもあったそうです。
当てもなくフラフラとした生活を送っていたので、大学には通学しなくなり、後に除籍となりました。
しかし、2004年には明治大学から、法的な大学卒業ではありませんが、独自の制度による「特別卒業認定証」を授与されています。
様々な才能を持つビートたけしさんですが、やりたいことが見つからず、苦悩した時代もあったのは意外ですよね。
ビートたけしのデビューのきっかけ
芸能に興味を持ち、学生演劇にも参加していましたが、馴染めずに浅草にあるストリップ劇場で芸人見習いを始め、劇場の座長・深見千三郎さんの元でコントを学びます。
その後、漫才コンビを組もうと考えたビートたけしさんを、深見千三郎さんが破門にしたことがきっかけで、ビートたけしさんは、テレビなどのメディアに進出することになりました。
コンビを組んだのは、ストリップ劇場で後輩だった兼子二郎(後のビートきよし)さんで、2人で正統派漫才に挑戦するもなかなか芽が出ず、生活は苦しくなる一方でした。
そのころ、大阪では漫才コンビ「B&B」が徐々に知名度を上げており、この勢いに触発された2人は、コンビ名を「ツービート」に改名して、個々の名前もビートたけし・ビートきよしとして新しい漫才スタイルで再出発しました。
「ツービート」の漫才にはダークなネタが多く、批判も多くありましたが「たかが漫才師の言うことだ」と本人たちはスタイルを変えることはありませんでした。
この頃のネタで有名なのが「毒ガス標語」と言われる定番ネタで「赤信号みんなで渡れば怖くない」などの標語ネタでした。
1982年には漫才ブームが去り、この頃から「ツービート」よりも、ビートたけしとして1人でタレント活動することが増えていきます。
ビートたけしさんのデビューのきっかけとして、オーディションを受けたエピソードは見つかりませんでした。
デビューした頃は、漫才やお笑いのオーディションを受けた経験もあるかもしれませんね。
ビートたけしの芸能界での活躍
漫才ブームが去り、ソロでの仕事が増え始めたころ、伝説のバラエティ番組「オレたちひょうきん族」がスタートし、メインの出演者として、お笑い界で突出した活躍を見せるようになります。
その後も冠番組となる「天才・たけしの元気が出るテレビ!!」「痛快なりゆき番組 風雲!たけし城」などのバラエティ番組が、次々に高視聴率をマークしますが、これらの番組の企画・構成は全てビートたけしさんが行っていました。
お笑いタレントとして不動の人気となったビートたけしさんが、映画監督デビューを果たした作品は1989年に公開された「その男、凶暴につき」でした。
この作品は当初、深作欣二さんが監督を務め、ビートたけしさんが主演を務める予定でしたが、スケジュール等の都合がつかず、ビートたけしさんが北野武として監督を務めることになりました。
その後、1997年には映画監督・北野武として「HANA-BI」で日本作品としては40年ぶりとなるヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を受賞しています。
2007年にはカンヌ国際映画祭60周年記念企画にて35名の著名な映画監督に、日本人で唯一選出されています。
これまでに、数えきれないほどの映画賞を受賞し、日本を代表する映画監督の1人として評価されています。
ビートたけしの芸能界での伝説
昭和の時代からお笑い界で活躍しているビートたけしさんは、芸能界の伝説となるエピソードもたくさんあります。
ビートたけしさんの興味深いエピソードを紹介します。
番組観覧客にキレてしまった!?
1980年に放送されたバラエティ番組「笑ってる場合ですよ!」にレギュラー出演していたツービートですが、最終回で、ビートたけしさんは観客に向かって「何でもゲラゲラ笑いやがって!お前らみたいな客は大っ嫌いだ!」と言い放ち、後番組の司会をオファーされていましたが断ったそうです。
その後番組というのが「笑っていいとも!」で、司会はタモリさんが担当することになりました。
コマネチの誕生秘話
ビートたけしさんのギャグと言えば「コマネチ」が有名ですよね。
芸能人でも真似する人がたくさんいるコマネチは、まさに国民的ギャグと言っても過言ではありません。
しかし、コマネチはビートたけしさんがギャグを考えようと思って作ったのではなく、体操選手のコマネチ選手の名前が思い出せず、レオタードのジェスチャーをしたのが、なぜか「コマネチ」というギャグになったそうです。
天才・ビートたけしが嫉妬する才能の持ち主とは?
タレントや映画監督として成功し、芸能人からも尊敬され、羨まれる存在であるビートたけしさん。
そんなビートたけしさんが嫉妬するほどスゴイ人として、所ジョージさんの名前を挙げています。
プライベートでも親交の深い所ジョージさんは、生活スタイルの発想が人と違っていて、自分には真似できない」と評価しています。
また、歌手の甲本ヒロトさんの音楽を聴き「自分はお笑いではなく、こんな感じの音楽がやりたかったのかもしれない」と思い嫉妬したこともあるそうです。
映画監督としても成功し、今や世界的に有名なビートたけしさん。
明石家さんまさん、タモリさんとともに、お笑いビッグ3として、まだまだ伝説を残してくれるでしょう。