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【和田アキ子】オーディションなび的タレント伝⑤ーゴッド姉ちゃんの伝説

2021.03.24 / エンタメ, 芸能人

和田アキ子のプロフィール

芸能界のゴッド姉ちゃんと呼ばれるほど、「怖い」イメージが強い和田アキ子さん。
歌手だけでなく、タレント、司会、ラジオなど、幅広いジャンルで活躍しています。
そんな和田アキ子さんが、芸能界に入るきっかけや、芸能界でのエピソードを紹介します。
はじめに、和田アキ子さんのプロフィールから見ていきましょう。

和田アキ子

本名   飯塚 現子(いいづか あきこ)
生年月日 1950年4月10日
出身地  大阪府大阪市
血液型  O型
身長   174㎝

在日韓国人として、大阪府大阪市天王寺区に生まれた和田アキ子さんは、身長174㎝、足のサイズ27㎝という大柄な女性のイメージや、気の強い性格のイメージが強く、後輩芸能人から恐れられるエピソードがネタにされることも多いですよね。
その反面、実はとても繊細な性格でもある和田アキ子さんのエピソードを紹介していきます。

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和田アキ子のデビュー前のエピソード

済州島出身の父、朝鮮半島出身の母のもとに生まれ、在日韓国人2世として日本で生まれ育ちます。
4人兄弟の長女で、下には弟が三人おり、父は柔道の師範で、自宅で「金海道場」という柔道場を開いていました。
その影響もあり、和田アキ子さんも柔道を習っており、体格を活かして中学1年生の時点で初段の腕前でした。
地元の小学校を卒業した後、私立城星学園中学校に入学し、そのまま高校にも進学しますが、父親が勝手に退学届けを出してしまい、高校には3日間しか在籍していません。

小学校高学年の頃から洋楽が好きで、憧れを抱き15歳になる頃にはジャズ喫茶などで歌を披露するようになった和田アキ子さん。
ちなみに、和田アキ子さんが自分は日本人ではないと知ったのは、中学生の時だったそうです。

和田アキ子さんの父はとても厳しく、父の前では敬語を使わなければならず、小学生の頃からしつけとして殴られることもありました。
そんな父に反発した和田アキ子さんは、中学2年生頃から不良の番長になり、大阪のミナミでは「ミナミのアコ」と呼ばれ、恐れられる存在でした。

和田アキ子の芸能界デビューのきっかけ

不良の番長として子分を従えて、喫煙や飲酒を繰り返すなど、非行に走った和田アキ子さんでしたが、芸能界デビューのきっかけは、スカウトでした。
ジャズ喫茶で歌っていた和田アキ子さんは、パワフルな歌声が、店の客の間で評判になり、芸能プロダクションの社長から、直々にスカウトされます。
その社長は、和田アキ子さんが今も所属する大手芸能プロダクション「ホリプロ」の創業者・堀威夫さんでした。

この当時、和田アキ子さんはソロではなく「グランプリーズ」というバンドで活動していましたが、デビューが決まったのはボーカルの和田アキ子さんと、キーボードの夏夕介さんだけだったそうです。
ちなみに、夏夕介さんは、一緒にデビューはせず、当時大人気だった「オックス」というグループに加入してデビューしています。
和田アキ子さんは、スカウトをきっかけにデビューしているので、オーディションに関する情報はありませんでした。

「和田アキ子」としてソロで歌手デビューすることになり、「和製リズム・アンド・ブルースの女王」というキャッチコピーで、1968年に「星空の孤独」でレコードデビューを果たします。
リズム・アンド・ブルースを歌うので、世界に通用する名前がいいと、デビュー前には「マーガレット和田」という芸名が考えられていたそうです。
しかし、本人のイメージに合わないので「和田アキ子」としてデビューすることが決まったそうです。

2枚目のシングル「どしゃぶりの雨の中で」が大ヒットし、順調なスタートを切った和田アキ子さんでしたが、当時は先輩歌手のいじめに悩まされることもありました。
控室で、体の大きい和田アキ子さんに対し「男がいるから着替えられない」など心無い言葉をかける人もいました。
そんな時に「気にしなくていい」と助けてくれたのは、いしだあゆみさんや中尾ミエさんなどの歌手仲間だったそうですよ。

和田アキ子の芸能界での活躍

1969年に発売した2作目のレコード「どしゃぶりの雨の中で」は17万枚を売り上げ、期待の新人歌手として知名度が上がりました。
また、20歳になった1970年には、ヒット曲「笑って許して」でNHK紅白歌合戦に初出場し、1978年まで連続出場を果たすなど、歌手としての実力が世間に認められるようになります。
1972年には「あの鐘を鳴らすのはあなた」で日本レコード大賞最優秀歌唱賞を受賞しています。

歌手として着々とキャリアを重ねていた和田アキ子さんですが、同時に「強い姉御」「怖い」などのイメージでバラエティ番組でも注目されるようになり「ゴッド姉ちゃん」としてお茶の間の人気者になります。
しかし、本人は歌手活動に専念したい考えが強く、強制的にレギュラー出演していたバラエティ番組を全て降板したこともありました。

歌手活動に専念した後に、1985年からは冠番組「アッコにおまかせ!」がスタートし、1986年には8年ぶりにNHK紅白歌合戦出場を果たすなど、歌手・タレントとして大活躍します。
ちなみに、NHK紅白歌合戦には、2015年まで連続出場し、通算39回出場、紅組のトリを7回も務めています。

和田アキ子の芸能界での伝説

和田アキ子さんと言えば芸能界でも伝説として語り継がれるエピソードがたくさあんあります。
「芸能界のゴッド姉ちゃん」の印象深いエピソードを紹介します。

CDのケースを割って開けていた!?

柔道の有段者で力が強いことでも知られる和田アキ子さんですが、記憶をなくすほどお酒を飲んで暴れるなど、周りも驚くダイナミックなエピソードが多い芸能人でもあります。
その中でも特に印象的なのが「CDが発売されて間もない頃、開け方が分からず拳で割って開けていた」というエピソードです。
まだCDが登場したばかりで、どこから開けたらいいのか分からなかったそうですが、拳で割るという発想がさすがですね。

「ゴッド姉ちゃん」は本当に喧嘩が強い?

ダウンタウンが司会を務めるバラエティ番組で、タレントの紅蘭さんが留学中に強盗に襲われ、背中に拳銃を突き付けられたエピソードを話し、それを聞いた和田アキ子さんは「犯人が右利きなら左側に逃げた方がロスが生まれるから良い」などと対処法を教え、松本人志さんから「どんな青春やったんや」とツッコまれる一幕もありました。
ちなみに、大阪で不良だったころには、喧嘩をすると橋の上から相手を落とすこともあり、道頓堀に初めて人を投げたのは和田アキ子さんだというエピソードを語ったこともあります。
恐るべし「ゴッド姉ちゃん」の武勇伝ですね。

男性に間違えられるエピソード

ある日、パチンコ店に変装して訪れた和田アキ子さんは、後ろに中村珠緒さんが座っていることに気付きながらも声をかけずにいました。
するとしばらくして、和田アキ子さんの肩をトントンと叩いてきた中村珠緒さんは「私仕事があるから、兄ちゃん残りの玉打っといて」と、男性と間違えて声をかけてきたそうです。
また、2000年に交差点で車にはねられ右足骨折の大けがをした時には、スポーツ紙に「車が大破」と報じられた和田アキ子さんですが、この時にも救急車で運ばれる際に、救急隊員が病院に連絡する時に、和田アキ子さんのことを「30代半ばの男性」と伝えているのが聞こえてショックを受けたそうです。

衝撃的なエピソードがたくさんの和田アキ子さんですが、単に喧嘩が強いわけではなく、楽屋泥棒を捕まえるなど、勇敢なエピソードもあり、かっこいいですよね。
何よりも、和田アキ子さんならではの迫力のある歌声を、これからも聴かせてほしいですね。

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