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【黒柳徹子】オーディションなび的タレント伝➁ー審査員に言われた合格の理由とは

2021.03.19 / 芸能人

黒柳徹子のプロフィール

司会、女優、エッセイストなどマルチタレントとして活躍する黒柳徹子さんは、日本の芸能人の先駆け的な存在で、デビューから長期に渡ってテレビなどのメディアに出演し続けています。
今のテレビ視聴者にとっては、物心がついたころから黒柳徹子さんの活躍を見ている人がほとんどですよね。
最近はあまり語られることがない、黒柳徹子さんが芸能界デビューするきっかけや、芸能界でのエピソードを紹介していきます。
はじめに、黒柳徹子さんのプロフィールから見ていきましょう。

黒柳徹子

出身地  東京都
生年月日 1933年8月9日
血液型  A型
学歴   東洋音楽学校(現在:東京音楽大学)声楽科卒業

1933年生まれなので、現在87歳(2021年3月現在)の黒柳徹子さん。
今でもテレビ番組の司会を務めるなど、年齢を重ねるにつれて、ますます黒柳徹子さんの魅力が増しているようにも感じられます。
黒柳徹子さんのデビュー秘話や、エピソードを紹介していきます。

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黒柳徹子のデビュー前のエピソード

東京市赤坂区乃木坂(現在の東京都港区乃木坂)で生まれた黒柳徹子さんは、音楽家の父とエッセイストの母のもとで育てられますが、幼少期は相当な問題児として、小学校を退学させられたというエピソードがあります。

その後、生徒が好きな科目を選んで授業を受けたり、みんなで散歩をするなど、自由で平和な教育をモットーとした「トモエ学園」に転入します。
幼少期には、「驚くような事件ばかり起こしていた」と本人が言うほど、問題児だった黒柳徹子さんですが、トモエ学園の校長は「君は本当はいい子なんだよ」と何度も声をかけてくれたそうです。
この言葉は黒柳徹子さんの人生の支えとなっていたそうで、トモエ学園での校長先生との出会いは、人生でとても貴重な出会いだったのではないでしょうか。

黒柳徹子さんの幼少期を描いた自叙伝「窓ぎわのトットちゃん」は黒柳徹子さんがノンフィクションで書いた本で、累計発行部数800万部を記録しており、戦後最大のベストセラーと言われています。
ちなみにタイトルのトットちゃんは、滑舌の悪かった黒柳徹子さんが「てつこ」を「トット」と発音していたことから由来しています。

黒柳徹子のデビューのきっかけ

黒柳徹子さんが芸能界入りしたのは、1953年頃からですが、実はこの年は日本でテレビ放送が開始された年です。
テレビ放送開始のために募集された、NHK放送劇団五期生として、テレビ女優の第一号としてデビューしました。

オペラ歌手を夢見て音楽大学に入学しましたが、卒業後「オペラ歌手にはなれない」と思った黒柳徹子さんは、NHK放送劇団に入団することを決意します。しかし女優やタレントを目指していたわけではなく、将来結婚して子供が生まれた時に「絵本の読み聞かせが上手なお母さんになりたい」と思ったことがきっかけだったそうです。

こうしてNHK専属女優となった黒柳徹子さんの初仕事は、1954年にNHKラジオで放送されたラジオドラマ「ヤン坊ニン坊トン坊」で三男・トン坊役を演じます。
大人の女性が子供の声を演じるのは、当時では珍しかったので話題となり、黒柳徹子さんの知名度が上がるきっかけともなりました。
特徴的な声で、その後も子ども向け番組で、様々なキャラクターの声優を演じています。

また、ラジオだけでなくNHKのテレビドラマ「若い季節」や、バラエティ番組「夢であいましょう」など、テレビ・ラジオ合わせて週にレギュラー番組10本を持つようになり、過労で入院したこともあったそうです。

黒柳徹子のオーディションエピソード

黒柳徹子さんは、新聞で見たNHK放送劇団の俳優募集記事を見て応募し、応募総数6,000人の中から最終審査通過13人の内の1人に選ばれます。
このオーディションでは6次審査まで行われ、女優の里見京子さんや横山通乃さんらとともに、5期生として活動を始めました。
面接審査の時には「芸能界は騙す人がたくさんいるから気を付けるように言われた」「親からはこんなみっともない仕事をするのはやめるように言われた」などと、正直に発言しすぎたにも関わらず、結果は合格だったそうです。
審査には、筆記試験やパントマイムの審査もあったそうで、試験は全然できなかったそうですが、合格後に審査員から「あなたは無色透明、そこがよかった」と合格した理由を聞かされたというエピソードもあります。

また、黒柳徹子さんは、舞台俳優の演技の上手さに感動し、自分自身も舞台での仕事を増やすようになります。
この頃、舞台「スカーレット」のオーディションを受け、スカーレットの妹・スエレン役に抜擢されます。
この舞台で、作曲家のハロルド・ロームさんの妻からニューヨークに来るように誘われ、黒柳徹子さんは留学を決意します。
日本で順調に芸能活動をしていた黒柳徹子さんの突然の留学に世間は驚きましたが、この留学で自分らしさを見つめ直したことが、芸能界で長く活躍するために最も必要な時間だったのかもしれませんね。

黒柳徹子の芸能界での活躍

日本での芸能活動を休止し、ニューヨークへ1年間留学をしていた黒柳徹子さん。
黒柳徹子さんのトレードマークである「タマネギヘアー」も、和服にも洋服にも似合うヘアスタイルとして、ニューヨークで暮らしている時に考案されたものです。
そしてニューヨーク留学中に、日本で初めてとなる女性司会者によるワイドショー「13時ショー」の司会を依頼され、帰国しました。

「13時ショー」は1976年から「徹子の部屋」となり、黒柳徹子さんはこの頃から女優としての活動を控えるようになりました。
この頃からマルチタレントとして、司会者の仕事がメインとなり、TBSの音楽番組「ザ・ベストテン」などの人気番組など、数々の人気番組に出演し、日本を代表する女性タレントとしてキャリアを重ねていきます。

さらに、黒柳徹子さんと言えば、TBSで1986年から放送されている「世界・ふしぎ発見!」にも初回から回答者としてレギュラー出演しており、こちらも長寿番組として長く愛されています。

黒柳徹子の芸能界での伝説

黒柳徹子さんと言えば、芸能界で数々の伝説を残していることでも有名です。
黒柳徹子さんと言えば、冠番組「徹子の部屋」での数々の伝説が有名ですが、最後に芸能界で歴史に残る黒柳徹子さんの伝説を紹介します。

徹子の部屋

「徹子の部屋」は伝説の長寿番組として、同一の司会者による番組の最多放送回数記録として、ギネス世界記録に認定されています。
2015年には放送回数が10,000回を超え、今も番組は続いているので、さらに更新されますね。

タマネギヘアーの秘密

黒柳徹子さんのトレードマーク「タマネギヘアー」には、飴が隠してあるというのはよく聞きますが、実は厚めの前髪の下にはピンマイクが隠れているそうです。
服につけるピンマイクは、衣装を台無しにすると考えた黒柳徹子さんは、ピンマイクのコードを背中から頭に回し、おでこに張り付けて隠しているそうです。

NHK紅白歌合戦司会

黒柳徹子さんは、1958年の第9回NHK紅白歌合戦で初めて司会を務め、その後通算6回も紅白歌合戦の司会に抜擢されています。
この回数はNHKアナウンサー以外では、女性の最多記録となっています。

まだまだ現役で、100歳になったら政治番組をやってみたいと語る黒柳徹子さん。
今後もさらなる伝説を増やして欲しいですね。

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