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【志村けん】オーディションなび的タレント伝⑦-ドリフメンバー昇格を推薦したのは?

2021.03.26 / エンタメ, 芸能人

志村けんのプロフィール

2020年3月に新型コロナウィルスによる肺炎で亡くなった志村けんさん。
お笑いタレントとして一時代を築いた大物芸人の突然の訃報に、日本中が衝撃を受けました。
ファンや仲間、たくさんの人に愛された志村けんさんの生い立ちや、芸能界でのエピソードを紹介していきます。
はじめに、志村けんさんのプロフィールから見ていきましょう。

志村けん

本名   志村 康徳(しむら やすのり)
出身地  東京都東村山市
生年月日 1950年2月20日
身長   169㎝
血液型  A型

ザ・ドリフターズのメンバーとして一世を風靡した志村けんさんは、今活躍している若手芸人にも多大な影響を与えたコメディアンです。
コメディアンとして人生を全うした、志村けんさんの生い立ちや、芸能界に入ったきっかけについて紹介していきます。

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志村けんの芸能界に入る前のエピソード

東京都北多摩群東村山町(現在の東京都東村山市)で、3人兄弟の末っ子として生まれた志村けんさん。
父親は小学校の教師で、とても厳格な人であり、兄2人も大学を卒業して公務員になる中、志村けんさんだけは大学へは進学せず、お笑いの世界に興味を持っていました。
志村けんさんがお笑いに興味を持つきっかけとなったのが、厳格な父親がテレビで漫才や落語を見ている時は楽しそうに笑っており、志村けんさん自身も厳しい家庭の中でお笑い番組を見る時間が楽しいと感じていたことでした。

中学生時代には、お笑いの道に進みたいと考えていた志村けんさんは、中学の文化祭でコントを披露することもあったそうです。
高校時代にはサッカー部に所属し、ポジションはゴールキーパーでした。
そして、高校卒業を間近に控えたころ、志村けんさんはお笑いの道に進むべく、動き出します。

志村けんが芸能人になったきっかけ

1968年、高校卒業を目前に、志村けんさんはいかりや長介さんの自宅を訪れます。
突然現れて弟子入りを志願する志村けんさんに対し、はじめは受け入れないいかりや長介さんでしたが、諦めない根性を認めて仮採用とします。
この時、志村けんさんは雪が降る中、いかりや長介さんの帰宅を10時間以上待っていたそうです。

後日、いかりや長介さんに呼び出された志村けんさんは、正式にドリフターズの付き人として採用されることになります。
しかし、加藤茶さんの付き人をするも、1年ほどで脱走してしまいます。
再び戻る時には、いかりや長介さんと顔を合わせにくく、加藤茶さんに間に入ってもらい、もう一度付き人に戻るチャンスをもらったそうです。

加藤茶さんの自宅に居候しながら付き人生活を続けていた志村けんさんは、1972年に井山淳さんと「マックボンボン」というコンビを組んで芸能界デビューを果たします。
音楽関連のショーの前座などで徐々に知名度を上げる中、デビュー間もなくテレビで冠番組を持つことになります。
しかし、まだ人気や実力が伴わず番組はすぐに打ち切りとなり、相方の井山淳さんが失踪してしまいます。

違う相方とコンビを組むも上手くはいかず、志村けんさんはドリフターズの付き人に戻ります。

すると、すぐにドリフターズのメンバーに加入するチャンスが訪れ、人気番組「8時だョ!全員集合」に「メンバー見習い」として出演するようになりました。
その後、1974年にドリフターズの荒井注さんが脱退したことで、志村けんさんが24歳の時にドリフターズの正式メンバーに昇格しました。

志村けんのオーディションエピソード

志村けんさんは、弟子入りをして付き人を経験し、ドリフターズのメンバーに昇格しているので、芸能界に入ったきっかけはオーディションではありません。

オーディションではありませんが、志村けんさんがドリフターズに加入する時には、新メンバー候補が他にもいたそうです。
1人目は、荒井注さんと同年代で、ザ・ドリフターズの番組にもレギュラー出演していたジャズミュージシャン・豊岡豊さんです。

二人目は「ドリフ第六の男」と呼ばれたコメディアンのすわ親治さんです。
ドリフターズの付き人で、志村けんさんよりも先にコントなどにも出演していて、昇格するメンバーとして予想されていました。
最終的には、加藤茶さんの推薦も後押しして、メンバー昇格は志村けんさんに決まったそうです。

志村けんの芸能界での活躍

ザ・ドリフターズのメンバーに加入した志村けんさんは、加入後しばらく思うように人気が出ない日々が続きました。
転機となったのは、あの有名な「東村山音頭」でした。
「8時だョ!全員集合!」で歌った「東村山音頭」が大ウケし、志村けんさんの人気だけでなく東村山市の知名度向上にも貢献しました。

その後、1985年には「加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ」で加藤茶さんと共演し、ドリフターズ以外にも、「志村けんの失礼しまぁーす!」「志村けんのだいじょうぶだぁ」「志村けんのバカ殿様」などの冠番組を持ち、独自スタイルのコントで一躍お笑いスターになります。

しかし、その後いつしか人気が低迷し、テレビなどのメディア出演が一気に減り、一時は「志村けん死亡説」が噂される事態になってしまいました。
この時期、志村けんさんはいたって健康でしたが、1985年に「8時だョ!」全員集合」が終了し、他のドリフターズのメンバーが映画やドラマで俳優として出演する中、志村けんさんはコントなどのバラエティ番組以外の仕事は一貫して断っていました。

2000年頃から、再びメディア露出が増え「天才!志村どうぶつ園」では、動物好きで知られる志村けんさんの人気番組の1つとして多くの人から愛されていました。

志村けんの芸能界での伝説

志村さんが生み出したコント、ギャグ、キャラクターなど、お笑い界の伝説となることは数えきれません。
志村けんさんが残した、数々のエピソードの中から、優しい人柄が伝わるエピソードを紹介します。

俳優のオファーを受けたきっかけ

俳優業のオファーを断り続けていた志村けんさんは、1999年に映画「鉄道員(ぽっぽや)」に出演します。
オファーを受けた理由は、主演の高倉健さんから直々に、留守番電話に出演依頼のメッセージが残されていたことでした。
この時の高倉健さんのメッセージは、録音して大切に保管していたそうです。
2020年には、志村けんさん初主演映画「キネマの神様」のクランクインが予定されていましたが、新型コロナウィルスに感染し、出演を辞退、その後肺炎のため亡くなり、志村けんさんと親交の深かった沢田研二さんが代役を務めています。

いかりや長介さんとの不仲説は本当?

一時期、志村けんさんといかりや長介さんには、不仲説が流れていました。
しかし、いかりや長介さんは2004年に他界する数ヶ月前、自分で購入したチケットで、志村けんさんの舞台をこっそり観に行っていたそうです。
また、志村けんさんが出演するテレビ番組も録画して見るなど、何かと気にかけていたそうで、いかりや長介さんが亡くなる前に病床で書かれたメモには「加藤がえらい 志村がえらい」と書かれていたそうです。
不仲説がささやかれていても、いかりや長介さんと志村けんさんにしか分からない、絆や距離感があったということですね。

実はフリートークが苦手だった

若手の頃は照れ屋で、フリートークが苦手だった志村けんさん。
バラエティ番組も、基本的にはコントなどのネタを見せる番組が多く、トーク番組への出演が少ないお笑い芸人でした。
また、ドリフターズのメンバーで唯一、長寿番組「徹子の部屋」にも出演しておらず、志村けんさんほどの知名度と人気があるタレントが出演していないのは珍しいケースだそうです。
また、番組担当者も志村けんさんが出演していないことに気付いていなかったので、実際に出演しなかった本当の理由は分かっていません。
しかし、黒柳徹子さんは、志村けんさんのコント番組のファンで、共演を果たせなかったことを悔やんでいるとコメントしています。

たくさんのコントや、ギャグで日本中を元気にしてくれた志村けんさんが、芸能界に残した功績は本当に大きなものでした。

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