演歌歌手

【北島三郎】オーディションなび的タレント伝⑧ー歌手を目指すきっかけとなった番組とは

2021.03.29 / 芸能人

北島三郎のプロフィール

映画界の大御所として長期に渡り、活躍している北島三郎さん。
数々のヒット曲を持ち、作詞・作曲も手がける北島三郎さんの、生い立ちや芸能界デビューのきっかけについて紹介していきます。

北島三郎

本名   大野 穣(おおの みのる)
出身地  北海道上磯郡
生年月日 1936年10月4日
学歴   東京声専音楽学校卒業

演歌界のトップに立つ北島三郎さんは、知名度も高く、演歌を聴く機会が少ない若者世代にもよく知られている、日本の演歌の象徴とも言える存在ですよね。
演歌界でトップに立つまでの、北島三郎さんの生い立ちや、芸能界デビューのきっかけについて詳しく紹介していきます。

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芸能界デビューする前の北島三郎

北海道で生まれた北島三郎さんは、芸名も北海道を連想する「北の島」という意味で名づけられていますが、本名は大野穣(おおのみのる)さんという名前です。
7人兄弟の長男として誕生した北島三郎さんの父は、漁業を営んでいましたが、暮らしはとても貧しかったそうです。
北島三郎さんは、弟が生まれるとすぐに、祖父母の元に預けられ、北海道の大自然で虫取りや川遊びなどをしながら、のびのび育てられたそうです。
歌が好きだった祖父は、北島三郎さんのことをとてもかわいがってくれたそうです。
北島三郎さんも祖父の影響を受けて、歌が好きな少年で、地元の演歌大会に出場することもありました。

その後、小学生の時に、父親が漁業を辞め、農業をするために引っ越しますが、生活の苦しさには変わりなく、その後も貧しい生活は続きます。
高校に入学する頃には、喧嘩が強いことで有名な「やんちゃ」な少年として、地元では知られた存在になります。
しかし、歌が好きな気持ちは変わらず、当時人気歌手だった三橋美智也さんや、岡晴夫さんのリサイタルを見に行っていたそうです。

北島三郎のデビューのきっかけ

北島三郎さんが、歌手を志すきっかけとなる出来事が起こったのは、高校生の時でした。
北海道で開催された「NHKのど自慢」に出場した北島三郎さんは、ステージで歌声を披露したものの、鐘2つで不合格となってしまいます。
しかし、当時司会を務めていた宮田輝さんから「良い声して学生さんですか?お上手でしたのにねぇ」と声をかけられ「自分にも歌手の道があるのではないか」と思うきっかけになったそうです。

その後、高校を中退し、東京の親戚を頼って上京し、東京声専音楽学校に入学して、歌手デビューを目指す生活を始めます。
酒場などを訪れて、客のリクエストに応えて歌う「流し」を行う日々で、3曲100円ほどで歌を披露していた北島三郎さん。
ある日、羽振りよく1000円を渡しリクエストしてくれた人がおり、その人こそが北島三郎さんの評判を聞いてやってきた、日本コロムビアの芸能部長でした。
後日改めて、日本コロムビアの芸能部長に呼び出され、そこで作曲家の船村徹さんを紹介され、北島三郎さんは「船村門下生」となります。
そしていよいよ、1962年に「ブンガチャ節」でデビューを果たします。

北島三郎さんは、こうしてスカウトされたことがきっかけでデビューしたので、オーディションを受けたエピソードは、ありませんでした。
デビュー前には、NHKのど自慢など、コンテストに出場していたので、その時にはオーディションなどの審査を受けていたかもしれませんね。

北島三郎の芸能界での活躍

「ブンガチャ節」でデビューした北島三郎さんでしたが、春歌の歌詞を変えて売り出したため、発売からたった1週間で、放送禁止になってしまいます。
しかし、その後に発売したセカンドシングル「なみだ船」がヒットしました。

1963年に設立されたレコード会社「日本クラウン」に移籍し、この年には紅白歌合戦への初出場も果たしています。
1965年には「兄弟仁義」「帰ろかな」「函館の女」などヒット曲が生まれ、人気演歌歌手の仲間入りと言える活躍を見せます。
ちなみにヒット曲「兄弟仁義」は映画化・シリーズ化されて、北島三郎さんも出演しています。

1972年に北島音楽事務所を設立し「原譲二」名義で、作詞・作曲・演出の仕事も積極的に手掛けるようになりました。
また「与作」「まつり」などのヒット曲も生まれ、演歌界の大御所としてNHK紅白歌合戦では、史上初となる出場回数50回を達成し、2013年で勇退しています。
この他にも、明治座などで行われていた、北島三郎さんの座長公演は2015年の博多での公演まで、46年をかけて4578回行われました。

演歌界の大御所として、たくさんの功績を残した北島三郎さん。
2002年には北海道函館市に「北島三郎記念館」が開館しました。

北島三郎のエピソード

長く芸能界で活躍し、演歌歌手としてはもちろん、作詞・作曲、俳優業など幅広く活躍してきた北島三郎さんの、気になるエピソードをピックアップして紹介していきます。

妻との出会いは?

北海道の高校を中退し、上京した後、下宿先のアパートの大家の娘・雅子さんと出会います。
まだデビューする前の北島三郎さんとの結婚を、雅子さんの両親は反対しましたがデビュー3年前になる1959年に結婚式を挙げています。
ちなみに、デビュー当時は既婚であることは隠し、プロフィール上は独身となっていたそうです。
その後、長男が誕生する時に、週刊誌にスクープされ、妻と子供がいることを公表しました。

漫才コンビを組んでいた!?

すでに船村門下生となり、初めてのヒット曲である「なみだ船」のレコーディングも済ませていた頃、師匠の船村徹さんの提案で漫才コンビとしてステージに立つことになります。
ギター漫才コンビ「ゲルピンちん太ぽん太」のぽん太として前座などを行っていました。
船村徹さんは、漫才コンビを組ませた理由として、なかなかデビューのチャンスを掴むことができない北島三郎さんに、舞台に立たせて度胸をつけさせるために、台本も船村徹さんが書き、自ら使ってもらえるように売り込みも行ったそうです。
しかし、その甲斐なく、前座でも使い物にならないと、数日で使ってもらえなくなってしまったそうです。

実は大の甘党

大の甘党で、学生時代には、黒砂糖をかけた白ご飯を食べるのが好きだった北島三郎さん。
今でも、コーヒーには大量のお砂糖を入れて飲むなど、甘いものが大好きなんだそうです。
また、舞台の前には必ず炭酸を抜いた三ツ矢サイダーを飲んでいるそうで、三ツ矢サイダーの炭酸を抜いておくのも、弟子の大事な仕事の1つだそうです。
ある時は、弟子の北山たけしさんが、舞台の前にどうしても三ツ矢サイダーを準備する事が出来ず、別のメーカーのサイダーの炭酸を抜いて渡したところ、すぐに三ツ矢サイダーではないことがバレてしまい、怒られたというエピソードもあります。
ちなみに、お酒が全く飲めない体質で、奈良漬けを食べただけでも、酔っぱらってしまうほどだそうです。

大御所の北島三郎さんでも、演歌界のスターになるまでには、数々の苦労があったのですね。
2016年には、自宅の風呂場で転倒して、元々持病のあった頸椎の手術を受けるなど、体調面の不安もありましたが、今後も、コンサート開催予定もあるので、これからも素敵な歌声を聞かせてほしいですね。

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