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【桑田佳祐】オーディションなび的タレント伝(12)ーいとしのエリーの誕生秘話とは?

2021.04.30 / 歌手

桑田佳祐のプロフィール

国民的人気バンド「サザンオールスターズ」のバンドマスター・桑田佳祐さん。
バンドだけではなく、ソロのアーティストとしても活躍している桑田佳祐さんには、どのような生い立ちや、デビューのエピソードがあるのか気になりますよね。
はじめに、桑田佳祐さんのプロフィールから見ていきましょう。

桑田佳祐

本名   桑田佳祐
生年月日 1956年2月26日
出身地  神奈川県芽ヶ崎市
身長   170㎝

桑田佳祐さんは、鎌倉学園高等学校を卒業後、青山学院大学経営学部に進学しますが、後に除籍となっています。
妻は、サザンオールスターズのキーボードとボーカルを担当する、原由子さんというのは有名ですが、桑田佳祐さんの姉である岩本えり子さんもミュージシャン、作詞家として活躍していました。

ここからは、桑田佳祐さんについて、さらに詳しく紹介していきます。

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桑田佳祐の生い立ちとは

1956年に誕生した桑田佳祐さんですが、父は地方新聞の記者、映画館、料理店の雇われ支配人、バーの経営など、仕事を転々としていました。
桑田佳祐さんの母も夫の仕事に協力しながら、後に夫婦で割烹を経営します。

芽ヶ崎市立芽ヶ崎小学校から、芽ヶ崎市立第一中学校へと進んだ桑田佳祐さんですが、学生時代は野球に打ち込み、エースとして野球部に所属していました。
また、学生時代には、ビートルズ、エリックプラクトンなど、様々なミュージションの影響を受け、クラスのみんなに歌のものまねを披露することもあったそうです。

そんな桑田佳祐さんは、鎌倉学園高等学校3年の時に、中学時代の同級生で、後に音楽評論家となる宮治淳一さんから、神奈川県立鎌倉高等学校の文化祭への出演を依頼されます。
ビートルズの楽曲を演奏し、桑田佳祐さんにとって、初めて人前で歌ったステージとなりました。

父親は、桑田佳祐さんに、バーテンダーや自衛隊の仕事を勧めていましたが、桑田佳祐さんは「作詞家になる」と告げていたそうです。
そして、1977年にサザンオールスターズとして、アマチュアバンドのコンテスト「EastWest」に出場し、桑田佳祐さんは、ベストヴォーカル賞を受賞し、これがデビューのきっかけへと繋がります。

桑田佳祐のデビューのきっかけ

サザンオールスターズはデビューのきっかけとなった「EastWest」まで、メンバーが頻繁に入れ替わっていましたが、このコンテストで、レコード会社「ビクター音楽産業」との契約が決まります。
一方で、所属事務所は決まらずにいましたが、芸能事務所の「アミューズ」がサザンオールスターズに興味を持ち、テレビに出演させてみたいと考えて、所属が決まりました。

1978年6月、いよいよ「勝手にシンドバッド」でメジャーデビューを果たします。
デビュー曲でいきなり人気音楽番組「ザ・ベストテン」に出演し、楽曲も大ヒット、2作目「気分しだいで責めないで」、3作目「愛しのエリー」と立て続けにヒット曲を生み出します。
デビューしてすぐに、サザンオールスターズの伝説は始まっていたんですね。

桑田佳祐のオーディションエピソード

桑田佳祐さんが、サザンオールスターズとしてデビューするきっかけとなったのは、コンテストだったので、オーディションに関するエピソードはありませんが、デビュー曲「勝手にシンドバッド」を発売するに当たり、数々のエピソードがあったそうです。

この曲はデビュー前から、桑田佳祐さんが歌っていた曲で、デビューのきっかけとなったコンテストでも披露した曲です。
桑田佳祐さんは「売れる売れないは関係なく、自信作だ」と思っていたそうですが、最初はバンドのメンバーからも、あまり評価されなかったそうです。

1度聞いただけでは、意味が理解できない歌詞で、当時としては斬新な楽曲だったので、関係者の中では、デビュー曲は別の曲にしたいという意見が上がります。
しかし、桑田佳祐さんは「勝手にシンドバッド」をデビュー曲にしたいという思いが強く、所属事務所の社長も、この曲に思い入れが強かったことから、デビュー曲に決まりました。

当時、甲斐バンドの甲斐よしひろさんは、自身がDJを務めるラジオ番組で「勝手にシンドバッド」を選曲し「絶対に売れる」と力説していたそうです。
先輩ミュージシャンたちからの評価も高く、デビュー当時から桑田佳祐さんの才能は注目されていました。
当時は、ロックミュージシャンやバンドがテレビに出演することが少ない時代でしたが、サザンオールスターズは積極的にメディアに出演し、話題となります。

派手な衣装やステージパフォーマンスで視聴者の心を掴み、デビュー曲からいきなりの大ヒットとなりました。
ちなみに、歌う時に桑田佳祐さんが早口すぎて、視聴者が聞き取れないだろうと、日本語の歌詞にもかかわらず、歌詞テロップが流れるようになります。
今でも音楽番組で、歌詞がテロップで流れるのは、桑田佳祐さんから始まったと言われています。

桑田佳祐の芸能界での活躍

1978年に「サザンオールスターズ」としてメジャーデビューを果たしましたが、1985年にバンドとしての活動を休止しています。
翌年にはKUWATA BANDを結成し、約1年間の活動期間で、発表した4作ともにヒットしています。

1987年には、音楽プロデューサーの小林武史さん、藤井丈司さんが楽曲制作に加わる形で、ソロデビューも果たします。
同時期にサザンオールスターズとしての活動も再開しました。
デビューから長期に渡り、歌手として活躍する中で、数えきれないほどのヒット曲を発表しています。

サザンオールスターズのヒット曲

・勝手にシンドバッド(1978年発売/累計売上枚数80万枚以上)
・いとしのエリー(1979年発売/累計売上枚数72万枚以上)
・エロティカ・セブン(1993年発売/累計売上枚数174万枚)
・TSUNAMI(2000年発売/累計売上枚数290万枚以上)

桑田佳祐のヒット曲

・波乗りジョニー(2001年発売/累計売上枚数110万枚以上)
・白い恋人たち(2001年発売/累計売上枚数120万枚以上)
・明日晴れるかな(2007年発売/累計売上枚数36万枚以上)

誰もが知っているヒット曲ばかりで、紹介しきれない程の名作があります。
オリコンの記録では、グループとソロの総売り上げが1000万枚を超えており、年齢4年代(30~60代)の連続シングル1位獲得回数が歴代1位となっています。
ソロ活動、バンド活動に加え、Mr.childrenや福山雅治さんなどの人気アーテイストとのコラボレーションなど、精力的に音楽活動を続けてきた桑田佳祐さん。
全ての活動で発表した楽曲や作品は、どれも評価が高く、ヒットしており、改めて桑田佳祐さんの才能や注目度の高さがよく分かりますよね。

桑田佳祐の芸能界でのエピソード

これだけのヒット曲を生み出し、個性的なステージパフォーマンスでも注目される、桑田佳祐さんのエピソードを紹介します。

別名義がたくさんある!?

桑田佳祐さんは、様々な名義を使って、音楽活動を行っていますが、どれも桑田佳祐さんらしいユーモアのある名前が使われています。

・嘉門雄三(かもん)ゆうぞう・・・come onと敬愛する加山雄三さんから名付けられました。
・古賀紅太(こがこうた)・・・コカ・コーラのCMソングを担当する時に、名付けられました。
・夷撫悶汰(イヴモンタ)・・・フランスの俳優「イヴ・モンタン」から名付けられました。

他にも、稲村ジェーン・フジオカ、桑竹居助(くわたけ いすけ)など、ライブ、CMなどの度に、様々な名義で出演しています。

サザンオールスターズの名付け親は?

「サザンオールスターズ」というバンド名は、中学の同級生で、高校時代に桑田佳祐さんに文化祭の出演オファーをした、宮治淳一さんが名付け親です。
大学進学後に、音楽サークルを作り、桑田佳祐さんも何度もバンド名を変えながら出演していました。
しかし、あるコンサートの前に、ポスター制作が進む中、桑田佳祐さんのバンド名が決まらず、宮治淳一さんが考案役になります。
お風呂に入っていた時に聞こえてきた、ファニア・オールスターズのCM、ニール・ヤングの「サザン・マン」を組み合わせて「サザンオールスターズ」というバンド名が誕生しました。

「いとしのエリー」誕生秘話

1979年に発売され、今も歌い継がれる名曲「いとしのエリー」は、サザンオールスターズのメンバーであり、桑田佳祐さんの妻である原由子さんのために作った楽曲だそうです。
サザンオールスターズとしてデビューする前から、原由子さんにプロポーズをしていた桑田佳祐さんでしたが、同級生と浮気をして原由子さんと別れることになってしまいます。
しかし、そのことがきっかけで、改めて原由子さんの大切さを実感した桑田佳祐さんは、もう一度プロポーズします。
この時の心境を歌った歌が「いとしのエリー」であり、完成した時には、原由子さんに電話で歌って聞かせたというエピソードがあります。

サザンオールスターズは、デビュー後から今も変わらず、唯一無二のバンドとして、多くの影響を与えていますよね。
これからも、桑田佳祐さんの活躍が楽しみです。

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